History

クリエイティブ・ディレクター

講師紹介

YAKKO

絵を描いたり、モノづくりが大好きだった幼少期

絵を描いたり物語を作ったりすることが大好きな少女でした。

小学校時代は図工の時間は、自由にアイデアを出して形にする授業がワクワクして大好きでしたし、高校も選択授業は美術を専攻しました。

高校時代は、ビートルズのジョンレノンの妻であり、前衛芸術家のオノ・ヨーコの生き方や哲学に感銘を受け、インスピレーションアートにのめり込みました。

当然、進学は美大を希望。美大以外は考えられませんでした。

ですが、進学にあたり両親を始め大人たちから大反対を受けてしまったのです。

中学時代の恩師である美術の教師でさえ「美大に行っても自分の理想とする創作活動で生きていくのは難しい」と言われてしまいました。

当時美大を卒業してなれる職業は、子供たちに自宅で絵を教えたり、学校の美術教師になる、というくらいが関の山で、国内外で活躍するアーティストはほんの一握り、というイメージが先行していたのだと思います。インターネットもなかったので、情報を集める手段も本しかない時代でした。

私の父は国家公務員、母親は「結婚と育児こそが女性の幸せ」という、保守的な親でしたので、美大進学は「絵を描くなんぞ遊びに大学まで行く必要はない。そんな遊びに大学費用は出さない」の一点張りでした。

今思えば、私の身近にいる大人たちが、情報を集めて調べる、ということを一切せず自分たちの価値観や思い込みでジャッジした結果だった、と思います。実際に、美大を卒業して仕事がないなんていうことはなく、すべての商品に色や形がある以上、それをデザインしている人がいるわけなのですから。

当時、高校は規則が厳しい女子高に通っていて、アルバイトは禁止でしたし、美大に進むお金をを稼ぐために、卒業後何年も浪人して貯めなくてはいけないし、受験のための美大進学予備校のお金を工面しながら、というのは現実的に無理だと諦めてしまったのです。

美大に行けないのなら、どうでもいい。

そう思って、「就職に潰しの効く経済か経営学部へ進学しよう」と、美術とは関係のない大学へ通うことになったのです。

夢や希望を失った無気力時代

入学しても、好きなことを学べない苛立ちや、無駄なことに時間とお金を使っているというやりきれなさでいっぱいで、半ば自暴自棄になって無感覚状態で大学に通っていたような気がします。

そんな私に転機が訪れたのは、大学の交換留学制度でした。

自暴自棄になっていて、夢も希望も失いかけていたので、留学にも興味がまったくなかったのですが、

毎日、覇気のない表情で大学に通う娘を見ていた父からの勧めで、アメリカのワシントン州にある総合大学へ留学することになったのでした。

生まれて初めて親から離れた外国での暮らしは、私に「息の吸い方」を教えてくれたようでした。

自分の考えや価値観を相手に話し受け入れてもらえるという、ごく当たり前のことが、とても心地よく、毎日が刺激的でした。

そして、大学の寮で知り合ったアメリカ人の友人と夜な夜な部屋に集まり将来の話をしました。

「私は本当は経済なんか学びたかったわけじゃなく、美大へ進学したかった。大学を卒業したら、普通の会社員になって、普通の結婚をして子供を産んで、という暗黙のルートに乗って生きていくことに不安どころか恐怖を覚える。でも親はそれを強く望んでいる」

という悩みを吐露したところ、友人は不思議そうな顔をして

「なぜ諦めなくちゃいけないの? あなたは、いつでも自分で選択する自由があるはずよ」と言ったのです。

アメリカは、人生の回り道が就職やキャリアアップにマイナスになることはなく、いつでもやり直すチャンスがある、ということ。実際、知り合ったアメリカ人の友人は看護師を目指していましたが、途中で「小説を書きたい」と自分の夢が明確になり、スッパリと大学を辞めて地元のカレッジの文学部へ転入してしまいました。

日本の場合、人生の遠回りは就職面接でマイナスに捉えられたり、あまりいい印象ってないですよね。「大学卒業後は、人生経験のために世界を放浪しました」っていう価値観を受け入れてくれるような会社は、今でこそ理解されるかもしれませんが、当時は「何言ってんの?」と一蹴されるような、そんな暗黙の了解があったように思います。

でも、人生は私自身が進むべきものであり、教師や両親が反対したとしても、自分を信じて進むしかないことも、その時知りました。

大学卒業後は、編集出版会社で徹夜の日々

大学卒業後は、都内の編集出版会社に入社しました。

仕事は編集と営業。繁忙期は週に2日徹夜という超ハードな毎日を送っていました。

当時はまだパソコンも普及しておらず、編集作業はアナログだったので、社内にDTP課ができてからはDTP課の人に頼み込んで仕事を分けてもらい、少しずつ教えてもらいながらDTPもマスターしました。

Adobeソフトを使いこなせるようになったのは、この経験が基になっています。

仕事は充実してはいましたが、あまりにもハードな日々で身体を壊し、鬱寸前で毎朝起きて会社に行くことが辛く、無意識のときも涙が流れる、という状況になってしまい、必然的に仕事が続けられなくなってしまいました。

一度、しっかり休んでその後の人生を考えよう。

そう思って後先考えず、会社を退職して「無職」になりました。

無職時代からクリエイティブディレクターになるまで

6ヵ月間にわたり、「何もしない」という日々を送っていました。

鬱に近い状況だったので、新しいことをしたいとか、将来のことを考えるとか、そういうことすべてが煩わしく、とにかく「寝たい」「休みたい」という心境でした。

プールに泳ぎに行ったり、テレビを観たり寝たり… という生活を送っていて、そのままいくと確実にニートになっていたと思います。

半年くらい経ったあと、自然と「そろそろ働いてみようかな」という気持ちになり、Webデザイナーを募集していた会社に応募し採用されることになりました。

当時、まだWebサイトのことを「ホームページ」と呼んでいた黎明期で、今のような洗練されたWebサイトを持つ企業はほとんどなく、まだホームページさえ用意していない、という企業も多かった時代です。

Web制作は、遊びでちょろっとやったことがある、程度の経験でしたが、そんな時代でしたので採用してもらえました。

この会社のトップが方向性と最終的なGoだけは出すけれど、あとは「自由にやっていい」という考え方だったので、クリエイティブな思考、アイデア出しが得意な私にとっては最高の環境でした。

私が出すアイデアも、上司は面白がってすぐに採用し実践していく、というスピード感も合っていました。

副業から、社内で事業を立ち上げるまで

毎日楽しく仕事はできていましたが、給料はそれほど良くなく、「もう少し生活に余裕があればいいな」という気持ちから、副業を始めました。

会社の規約に副業禁止というものはなかったので、念のため上司に確認の上、「月に5万円程度の副収入があればいいな」という気持ちから始めました。

副業では、パンフレット制作など、印刷物デザインを中心に単発のアルバイトをやっていました。

本業ではWeb制作を中心に、会社の広報に関わる全ての企画や制作に携わりました。SEOの知識もつき、「検索上位に表示される」ということが口コミで広がり、会社関係者から「Webサイトを作って欲しい」という要望がポチポチと入るようになりました。

ですが、副業で会社が終ってからの仕事だと、プライベートが完全になくなってしまうのと、本業に支障があってはまずいと思い、上司に「企画提案」を出したのです。

会社関係者以外のWebは作らない。会社にとって、関係者へのサービスの一環にもなる。会社に売上の一部を納める、という条件で、社内に制作部門を立ち上げてもいいかどうか、打診しました。

つまり、社内で個人事業を営んでもいいか、という提案です。

普通なら反対されると思うんですが、中小企業で風通しの良い会社ということもあったし、社員の仕事によっては歩合が付く人もいたので、交渉によりそれが叶うことになりました。

制作に関しては、社内に知識がある人は私以外誰もいないので、エラーやバグが出てもすべて自分でググって解決する、という習慣も、働きながら身につけることができました。

さらに「自由にやらせてもらえると成果を出す」「クリエイティブなことが得意」という私にとって、そういう環境はますます「もっと勉強したい」という意欲が沸き、成果物のすべてに相乗効果が出てくる、という好循環が生まれました。

そして、オーストラリア人のトップから「クリエイティブ・ディレクター」に昇格してもらうことができました。

クリエイティブ・ディレクターとは、企業のすべての広報物―パンフレット、名刺、ポスター、看板、Webサイト、ランディングページ、SNSなど―の司令塔です。

すべての制作の企画や指示、決定権持ち、企業のブランディングやマーケティングに関わっていく、という仕事です。

責任もあるかわりに、とてもやりがいのある仕事でした。

会社を辞め、起業。FBCを立ち上げる

仕事はとても楽しいものでしたが、私の中では少しずつ想いとのギャップが生まれ始めました。

それまではクリエイティブワークが中心で、営業しなくても常にお客様から問合せや受注がある、という恵まれた状況でしたが、「このまま会社員を続けていていいのだろうか」という気持ちも芽生え始めました。

60歳の定年近くなっても、ずっとクリエイティブワークをしているんだろうか。

60歳の定年になって、突然仕事がなくなっても、それまでと同じように仕事が入ってくるだろうか。

仕事が入ってきても、マンパワーは決まっていて、毎月受けられる仕事の量は限られている。

もし起業するなら、一日でも早い方がいい…

起業するにあたり、「安定した会社を辞めてまでやる意味」を考えました。

答えはすぐに見つかりました。

私は、「お金がなく、自信もスキルもないとき、周りの反対により諦めてしまった昔の自分」のような女性が、世の中にたくさんいる、ということを知っていたからです。

「将来はこんな仕事がしたい!」と思って大学まで進学したのに、結婚して子供が生まれ、当然のように専業主婦になった。子供が成長したら仕事に復帰すればいいや、と思ってはいたもののの、いざそのステージに入ったときにはスキルは古く、パソコンすらまともに使えない。自信がなく、一歩踏み出す勇気もでない。

本当はやりたいことがあるのに。20代の頃に目をキラキラさせて語っていた夢があったのに。

あの頃の夢を、40代になってまで口にすると夫や親に馬鹿にされるどころか、本気と思ってもらえない。勇気を出して声に出しても、適当にあしらわれてしまう。

だから、心の奥の方にその夢を押しやり、そっと蓋をしてしまっている。そんな女性たち。

ときどき、その蓋が開きそうになるけれど、開けてしまったら、必死に守ってきた何かが壊れてしまいそうで、必死に蓋を押さえている…

そんな女性たちの「蓋をこじ開けたい」というのが私の起業した理由です。

蓋をしているのは、本当にあなた自身ですか?

誰かに言われて、蓋をしなくちゃいけないと思いこんでいませんか?

あなたの人生は、あなたが自由に選択して生きていい、と信じてみませんか?

私は、自分の意志で人生を自由に生きる女性たちを増やしたいのです。

パソコンを小脇に抱えて、世界中を旅しながら仕事する

私自身の、アメリカでの学生時代からずっと思い描いていた夢。

会社員という働き方を続けている限り実現できない夢。

それは、「1年に3ヵ月、トラベルビザで外国に暮らすこと」。

パソコンとインターネットさえあれば仕事ができる環境、集客の仕組みづくりができれば、それが叶えられます。

実際に、今世界中の日本人の起業家たちとFacebookで繋がっていて、プロモーションも国境を越えています。FBCの受講生も、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、オーストラリア、インドネシア、マレーシアなど、様々。

外国で、旅するように仕事をしながら暮らし、その働き方を発信していく。

その働き方、生き方に共感した仲間たちが増えていく。

それが私の「理想の人生」です。

人生の幸福度は、仕事とお金だけでは決められません。環境や人間関係、健康、趣味、哲学。それぞれの要素の充実度が上がらないと、幸福度は上がらないのです。

FBCは、ただ「お金を稼げるようになりたい」と願う人よりも、「人生そのものを仕事を通して充実させていきたい」、そんな人たちに合っていると思います。

「あなた」はあなたで生きる。

一歩進みたいと願うあなたと、お会いできるのを楽しみにしています。

FREPPIESブランディングスクール運営者サイン

ロゴに懸けた思い

静かで、凛とした意志を持つネイティブ・アメリカンの女性。

スキルと経済力を身につけて
自由で自立した、カッコイイ女たちを増やしたい。

そんな想いをネイティブアメリカンの羽飾りに表しました。

自由

自分の人生は、あなただけのもの。
与えられたワンチャンスのこの人生を自由に生きるために、スキルと経済力を身につける

人生の豊かさや幸福度は、仕事やお金だけではありません。大切な人や仲間に愛を持って接する女性になる

自立

人に依存せず、嫉妬せず、自ら行動し人生を切り開く。自立した女性をめざす

Come work with us

パソコンひとつで
繋がる仕事、生き方

FREPPIESブランディング・カレッジで学ぶと、生き方の選択肢が増えます。

必要なのはパソコンとWifiだけ。

世界のどこからでも仕事ができます。

人生一度きり。あなた理想の未来を自分でつかみ取ってください。

こんにちは!

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YAKO FREPPIES
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